誰も死後の世界が無いと信じていない

池田さんの本を読んだので少し以前考えていた所を思い出せるように載せておく。と言って今回読んで考えたものではない。

誰も死後の世界が無いと信じていない

死後の世界。と言う言葉には二つの意味がある。一般的に多くの人が思い浮かべるのが、自分が死んだ後行く世界。というところである。もう一つの意味は、自分が死んだ後のこの世。つまりこの現実世界のことである。

一つ目の死後の世界は無いと信じている、いわゆる科学的な人々も、二つの目死後の世界、つまり自分が死んだ後のこの現実世界は有ると信じている。いわゆる頭の良い人たち、理性が高く、知的で論理的な人たちほど、こちらへの信仰?は高い。自分の死後、自分の意識が消滅し無くなっても(と言われている)、現実世界はそのまま存在している、という話は私にとっては何となくおかしい。違和感を覚えるのである。自分の死後も現実世界があるかどうか、それを確かめる当人の意識が死んでしまって無いのであるから、永遠に真実は確かめようはずもない。
しかし、自分が生まれてこの方、この世界が無かった事はない(と思われている)し、他人が死んだ後もこの現実世界は存在しているから、あたかも人が死んでも現実世界は無くならない様に見えるが、その実無くならないと思っている現実世界も、自分の意識によって認識されている世界であり、意識が無くなった後にも現実世界が存在しているのは論理がどこかおかしい。誰も意識に依らない現実世界と言うものを見た事はないのである。

死んで意識が無くなった後、意識によって認識されていた現実世界がそのままの時系列のままで存在し、経過していくと言い切れたり、信じられる根拠がどこにあるのか。私はここ数ヶ月疑うようになってきた。死後の世界は無い。という信頼は、意識が無ければ確かめようがないのであるから「分からない」と言わねばならない。本来分からないはずのものを、有ると言ったり無いといったりする人々のおかしさを感じる私がいる。

「自分で見たものしか信じない」のもおかしい

一方で、いわゆる独善的「自分で見たものしか信じない」という考え方もまたおかしい気がする。
第一に、自分で見た。とは「見ている」のではなく、「見た」のであり、過去である。見たそのものが今存在しているのではなく、見たと言う記憶を現在の自分が想起しているに他ならない。これは「自分で見た」と言う所の「見た自分」が実は現在には存在していないと言う事だ。

第二に、自分で見ていないものを人は信じることが出来るようにできている点だ。例えば、ある物を机の上に置き、しばらくして戻ると無くなっていたとする。とすると、自分の記憶と現実のギャップにより、おかしいと思う。何かが起き机の上から物が無くなったのだと思う。しかし、机の上から物がなくなるところ見ていないのに、それを起こったと信じるように出来ている。「自分の机の上に置いたものが絶対に有りつづける」ということを人は何故信じられるのか。これも考えてみるとまたおかしい。今の所は安直に<<自分で見ていないものを人は信じることが出来るようにできている>>からだと考えている。

自分と言う不思議

よく言われる「中身を宇宙人に乗っ取られたら気が付く事ができるか」と言う話の通り、他人が他人でありつづけているかどうかを判別する事など表面的にしか不可能である。
しかしこれも考えてゆくと、自分が、自分と言う意識を持ったまま、違う自分に入れ替えられたら私はそれが違うと言う事を気が付けるのだろうか。私が私であると意識する事ができるのは、まさしく私という意識があるからに他ならない。他の全ての事柄は付随するおまけに過ぎず、その実意識だけあれば、私は明日起きたら突然に私でなくなっていても気が付かないのでは有るまいか。

なんてことを考えていた。